2011年05月23日

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第十五話



 名刺の裏側に印刷された地図を頼りにたどり着いた、奥沢エイジのスタジオは代官山駅から歩いて十五分、坂の多い住宅地にあった。この辺、タモリが何かで紹介していた気がする。あとで宗佑にメールして聞いてみよう。洗練されたブティックの立ち並ぶ通りをやっと抜け出た安堵で、耶居子はそんなことを考えていた。青山だの日本橋だの代官山だの、美女と関わると、どうしてこう気の張る街に出て行く機会が増えるのだろう。頬を叩く風は冬の埃くささを含んでいる。ネットオークションで安く買った男物のジャケットに、玲子のお下がりの派手柄ストールをぐるぐる巻きにしてきて良かった。
 豪邸の間に挟み込まれている、白い四階建てのビル「スタジオE」の前に佇むと、表札横の小型カメラを意識して、葉月に借りたキャスケットを深くかぶり直した。インターホンを押すなり、
「入れよ。二階にいる」
 とエイジの声がする。玄関に鍵はかかっていない。ドアを引くと同時に煙草のにおいが一度に押し寄せ、ユリエと同じものだと気付き、なんだか恥ずかしくなってきた。まるで消防署にあるような鉄製の螺旋階段を上っていくと、突然、まばゆい光で目がくらみそうになる。見渡す限りの白いだだっ広い空間。二階と三階は吹き抜けになっているらしい。部屋の中央に寝そべって、しきりに一眼レフのシャッターを押していたのは奥沢エイジだ。女王様のようにエイジを見下ろし、ブーツの踵で彼の頭を踏みつけている太めの女と目が合い、耶居子はぎょっとして背を向ける。破れた皮を継ぎはぎした不思議なコスチュームは面積が小さく、ほとんど半裸と言ってもいい姿だった。むっちりした太ももや二の腕は汗ばみ、むんむんした色気に満ちていて直視できそうにない。この二人の間に漂うねっとり絡み付くような空気の、なんと卑猥なことだろう。室内の温度が明らかに高い。なんなんだ、このアマゾネスは......。
「早く入ってこいよ。用があるんだろ。もう休憩だから、ちょっとそこで待ってろ。彼女、俺の新しいミューズなんだよ。いい女だろ」
 カメラを覗き込んだまま、エイジが言った。一瞬迷ったが、耶居子はできるだけ動揺を悟られないようにして、背筋を伸ばし歩み寄っていく。認めたくないけれど、ひどく裏切られた気分で、悲しくさえあったのだ。
 なんだ、なんだ。奥沢エイジめ----。耶居子は唇を噛み締める。この間は「お前を撮り続けたい」「お前の表情に惹かれた」とか熱心に口説き続けていたくせに。もちろんモデルになる気など毛頭ないし、ふざけた男だという考えは変わらない。でも、たった一週間のうちにもう次のミューズを見つけているエイジが、薄情に思えた。
 ユリエが傷ついて引きこもった気持ちがわかる気がする。移り気な男と付き合うというのは、こうも心がすり減るものなのか。ブログにエイジの写真を得意そうに載せたり、呼び出されれば犬のようにホイホイついていくユリエを軽蔑していたが、彼女は彼女でエイジの気持ちをつなぎ止めようと必死だったのだろう。とにかくこの手の男のタチの悪さを身をもって知った今、これまで以上に気を引き締めねばならない。
 視線を感じて顔を上げる。アマゾネスがこちらに向かって、大きな口をニイっと横に広げているので、飛び上がりそうになった。ぐしゃぐしゃに乱れた髪にド派手なメイクだが、不潔でも下品でもない。羽みたいな付け睫毛がばたばたと上下している。はっきりと不細工だし耶居子以上の三段腹なのに、彼女が微笑んだだけで、スタジオ全体の空気ががらりと変わるみたい。どこかで見た顔だ。目が離せない。なんなんだろう、この吸引力の正体は。
「エイジ、この子? 日本橋で撮影したっていう子」
 よく通るハスキーボイスでアマゾネスが言った。ジャズ歌手になったらぴったりであろう、心に染み渡わたるいい声だ。エイジがようやくカメラから顔を離した。前髪がぐっしょりと汗で濡れ、瞳が子供のようにきらきら輝いている。こんなに楽しそうな彼を見るのは初めてかもしれない。
「ああ、そうだよ。池田耶居子、駆け出しのフードコーディネーターだ。こちらは我修院ノブヨさん。劇団『洗足池野獣会』の看板女優だよ。脚本も演出もすべて自分でやっている。テレビや映画で一度くらいは見たことあるだろう」
 言われてみれば----。耶居子はなんとか記憶をたぐり寄せようとするが、映画もテレビドラマもネットの評価を見て満足してしまい、ほとんど実物を見ていないことに、初めて気付く。舞台なんて一度も足を運んだことがない。ニュートラルな美女に囲まれて暮らしているせいで、サブカル識者になった気でいたが、世の中全体で見れば、自分の知識などたいしたことないのかも----。
「ノブヨさん、十分休憩」
「わかった。化粧落としてくるね」
 ノブヨさんは足元にあったバスローブをさらりと羽織ると、大きなお尻を左右に揺らして階段の方に消えていった。エイジは、コントレックスをがぶがぶと飲んでいる。
「すごいだろ。ノブヨさんのオーラ」
「ええ......。まあ......」
「ユリエは美人だけど、華がないだろ。モデルとして成功しなかったのはそのためだ」
 ユリエと聞いて、ここに来た目的をすっかり忘れていたことを思い出した。頭を左右に乱暴に振り、耶居子はペースを取り戻そうとする。仕事用の資料がぎっしり詰まったナショナル麻布スーパーマーケットのトートバッグからiPhoneを取り出した。玲子に給料を前借りし、止まっていた携帯の料金をまとめて払い、機種変更したのだ。こうでもしなければ、ユリエのネット上の暴走を見張ることができない。
「今日はお願いがあってきました。ユリエにこのサイトを閉じるように、説得してもらえませんか」
『ユリエズルーム』のトップページを画面いっぱいに表示し、エイジの鼻先に突きつける。
どれほど驚き、狼狽するかと思ったが、彼は落ち着いたものだった。
「おお、よく撮れているじゃないか。さすが俺の元教え子だな。セルフ撮影にしては構図も決まっている」
『今日のユリは、いつも以上にエッチな気分です。恥ずかしいユリエを皆もっと見て下さ??い』のタイトルの下で、下着姿でしどけないポーズをとるユリエを、エイジは面白そうに見つめている。耶居子はあきれて言葉もない。このエロサイトを初めて見た時、玲子など泡を吹いて卒倒せんばかりだったのに。
「のんきなこと言ってる場合じゃないですよ。好きな女が、日本中に裸さらしてんですよ。
恋人なら今すぐ止めるべきなんじゃないの?」
 この数日間の、浜島邸の騒動を思うと、気が遠くなりそうになる。すぐに駆けつけた宗佑は顔を真っ赤にして激怒した。彼がドアを蹴破ろうとするのを、皆で必死で止めた。葉月、優子も部屋の前で涙ながらに呼びかけたが、むろん返答はない。大人たちの動揺を察してか、まーちゃんもメルローも怯えた様子だ。
 耶居子たちの必死の説得を物ともせず、依然ブログの更新は続いていた。日を追うごとに、ポーズは大胆になり、写真の枚数は増えている。今のところ、申し訳程度に下着は身につけているものの、裸になるのは時間の問題だろう。現役モデルが立ち上げたエロサイトということで、早くもネットでは大ニュースになっている。アクセス数もコメント数も、「嘆きの美女」、まして耶居子のサイトの比ではない。一日中ネットに張り付いているだけのことはあり、ユリエはあらゆる書き込みに丁寧に対応し、意見を素直に取り入れている。おかげで熱心なファンは増える一方で、わずか数日で、ユリエは一躍ネットアイドルのスターダムに躍り出たのだ。
 一体、何を考えているんだろう----。耶居子はユリエがわからない。耶居子が憎いのなら、「ジャンクにジャンピン」に嫌がらせの書き込みをしたり、隠し取りした写真でも貼り付けてブスだと笑えばいい。事務所に解雇されてまで、どうして自分をさらし続けるのか。
「俺が説得しても、あいつ耳を貸さないよ。俺たち、もうとっくに別れてるから」
「え?」
「あの家でお前が俺を怒鳴りつけた夜のことを覚えているだろ。あの後、俺から別れを切り出したんだ」
 そんなに前に? まさか----。しかし、思い当たる節はいくつもある。ここ最近、ユリエに元気がなかったのもそのせいか。日本橋の個展に、耶居子を無理矢理引っ張っていったのも、おそらく別れた男に一人で会いに行く勇気がなかったためだろう。
「ひどいじゃないですか。ユリエが可哀想。あんた、やっぱ最低!」
「なんと言われても仕方がない。ただ、これだけは言わせてくれ。俺なりに、彼女のためを考えたんだ。お前に言われたこと、これでけっこうこたえたんだぜ。確かに仕事で行き詰まっている自分から逃げるために、ユリに甘えていたのは事実だったからな。俺から手を離さないと、アイツの人生は止まったままだってことに気付いたんだよ」
 自分を拳骨で思い切り殴りたくなる。まったく、なんて余計なことをしてしまったんだろう。男女の機微などろくにわからない自分がしゃしゃり出るのではなかった。発言を撤回させて欲しい。土下座でもなんでもして----。
「でもな、よく見てみろよ。一見、ただのエロサイトかもしれないけど、これはアイツのアーティストとしての立派な挑戦だよ。獅子丸は、あいつに躍進のきっかけを与えたのかもしれないぞ」
「はあ?」
「見ろ。これがユリエの魂の叫びだ。ルサンチマンが膿になって噴き出している。あいつ、これで大きく化けるかもしれないな」
 エイジはもう一度iPhoneの画面をじっくりと見つめた後で、こちらに返してきた。
 なにが挑戦だ。ルサンチマンだ。気取りやがって----。こんなサイトが表現活動であるはずがない。小難しいことで誤魔化して、またユリエから逃げるつもりなのか。ジリジリしていると、背後でハスキーボイスがした。
「わ! すごい美人じゃん。エイジの元カノ?」
 振り向けば、化粧をすっかり落としたノブヨさんが面白そうにiPhoneを覗き込んでいる。玲子や葉月たちとは違う、もっと強くてむせかえるようなにおいがした。花は花でも、ジャングルの奥地に咲く、図鑑に載っていない人食い花----。
 あらためてノブヨさんの顔を目にした瞬間、耶居子は叫びそうになった。
「やっぱりそっくりだね、私たち。日本橋の写真を見せてもらった時から、そう思ってたんだ」
 ノブヨさんは弾んだ声でそう言い、耶居子の頬に自分のそれをぴたりとくっつけてみせた。エイジが二人を見比べ満足そうにうなずいた。
「そっくりだろ。おまけに、お前より五歳上だけど、同じ獅子座なんだぜ。獅子丸がモデルなんてやりたくないって言うから、似た女を必死で探したんだ。そしたら、ノブヨさんにたどり着いたんだよ。今までは何の興味もなかったけど、あんたの魅力に今では参っている」
「あはは。そうはっきり言われちゃ、腹も立たないわ。エイジって本当に失礼ね! でも、あんたに撮られるの楽しいし、こうして劇団のチラシまで撮影してくれるんだから、ま、許す!」
 喉を仰け反らせて豪快に笑い、ノブヨさんはエイジの背中をピシャっと叩いた。すごい、なんという度量----。ノブヨさんともう少し話してみたい。こんな風に自分から人とつながりたいと思うのは生まれて初めてだ。美人にならなくても、世間に合わせなくても、伸び伸びと生きることはできるのかもしれない。周りを明るく照らし出す、太陽のようなエネルギーと表現手段さえあれば。ノブヨさんのそばにいるだけで、むくむくと気力が湧いてくるのが不思議だ。頭がぼうっとしてしまい、
「獅子丸の写真を、ノブヨさんの写真と並べて個展に出してもいいかな。『獅子座』っていうタイトルで」
 というエイジの願いにも、思わずうなずいてしまったほどだ。ノブヨさんが名刺を差し出して来たので、玲子にしつこく言われて作った手製の名刺を慌てて取り出す。絶対に連絡しよう----。耶居子は嬉しくなって宝物のように名刺を見つめ、ノブヨさんのメールアドレスや電話番号を焼き付けようとする。
「耶居子ちゃん、友達の占い師が言ってたんだけど、獅子座は獅子座同士でしか助け合えないんだって。仲良くしようね!」
 ノブヨさんに大きな手で肩を抱かれ、耶居子はようやく思い出した。そうか、ユリエも獅子座だ。あの誕生会は八月だった。エイジの新しい個展のタイトルはどれほど彼女を打ちのめすことだろう。まるで気に留めていないらしい彼にあきれてしまうが、もうこういう人間なんだから仕方ないんだな、とも思えた。足元のトートバッグにかがみ込み、ノブヨさんの名刺を大切にしまい込む。せめてもの収穫----。とにかく、ユリエのことは自分でなんとかするしかなさそうだ。その時、背後でどさりと、何かが投げ出される音がした。
 振り返ると、なんと背広姿の宗佑が怒りに体を震わせ、床に倒れ込んだ奥沢エイジを睨みつけている。一体、いつどこから入ってきたのだろう。玄関の鍵をかけていなかったことを思い出した。ノブヨさんは止めに入るどころか、楽しくてたまらないように、二人を見比べている。
「何してるんですか? 宗佑さん」
 こちらに気付くと、宗佑は驚いた顔で、バスローブ姿のノブヨさんに目を向け、たちまち真っ青になった。口をぱくぱくさせて、必死の形相で弁解している。
「ユリエがおかしくなったのはこいつのせいだと思い、兄として文句をつけにきたんだ。玄関は開いていて、そしたら、その、てっきり、その耶居子ちゃんまでこいつに----」
 意味するところがわかり、耶居子は体の芯が燃えるほど、恥ずかしくなった。なんとか心を落ち着けて立ち上がると、のびているエイジをまたいで、宗佑のそばに歩み寄った。
 この人、疲れているんだ----。会社の業績不振に妹の心配。体がいくつあっても足りないだろう。茫然自失といった様子の彼の手を引いて、スタジオを後にする。ノブヨさんがひゅうっと口笛を吹き、振り向くと親しみを込めて手を振ってくれた。
 駅まで続く、ゆるい坂道を並んで歩く。辺りはもうすっかり暗くなり、人通りもない。
「大丈夫だよ、宗佑さん。私がいるよ」
 いつまでも彼が黙り込んでいるので、耶居子はたまらなくなって口を開いた。二度もプールで救ってくれた恩人だ。今度は自分の番だと思った。
「カリットの砂肝フレーバーの試作、食べた? 旨いでしょ。旨いのよ。もう少しコンソメの味を強くしたら絶対、莫迦売れする。私が保証する」
「......」
「ユリエのことは、私がなんとかするよ。あいつは絶対に立ち直る。弱そうに見えるけど、本当は根性が悪くて負けん気が強いやつだって、私は知ってるもん。だって、友達だもん。私とユリエは友達だもん----」
 唾を飛ばしてわめく耶居子を、宗佑はじっと見つめている。なんとかして彼を安心させたい一心で、夢中でしゃべり続けていると、やっと宗佑はぽつりとつぶやいた。
「人を殴ったのなんて初めてだったんだ。ユリエのためだけじゃない。君が誰かのものになると思っただけで」
 何が起きたのかわからない。気付くと、耶居子は宗佑の胸の中にいた。男の体って固いんだ----。自分がどれほど柔らかい体をしているのかはっきり分かるなり、息もできないほど胸が高鳴り始めた。あらんかぎりの力を込めて、彼を突き飛ばす。肩で息をし、体中の気力をかき集めて、宗佑を睨みつけた。
「あんたが、そばにいるべきは私じゃないでしょ」
「え......」
 彼はぎくりと、端正な顔を引きつらせている。
「玲子さんとちゃんと向き合いな! デブめ! 痩せて格好よくなったかもしれないけど、あんたの中身はデブのまま。気付かない? あの人は整形してるの! あんたと同じ種類の人間! 腹割って話せば、絶対に分かり合えるんだから」
「ちょ、ちょっと待って......」
 耶居子は回れ右をすると走り出す。これでいいのだ----。宗佑のぬくもりが体のあちこちに残っている気がして、振り払うがごとく、耶居子は無我夢中で坂を駆け上がって行った。

柚木麻子

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