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第十三話
ユリエが引きこもって、今日で四日が経つ。
「このままじゃ、ユリエちゃん、餓死しちゃうわよ」
リビングに姿を現した玲子がため息まじりにトレイを見下ろした。クスクスが手つかずのまますっかり冷めて、ラムシチューが固まっている。カウンター越しに皿を受け取り、耶居子はやっぱりな、と肩をすくめた。冷蔵庫の扉を開けると、同じような食べ残しの皿がずらりと並んでいた。
「まあ、部屋に買い置きのお菓子くらいあるだろうし。お腹が減ったら下りてくるんじゃない?」
慰めるように口にしたのは、隣でお皿を拭いている優子だ。ユリエの体調を一番心配しているのは看護師の彼女かもしれない。ぷるぷるした唇が、ガラス窓から差し込む晩秋の光に照らし出されている。今日は玲子の教室もなく、ブランチ後のくつろいだ時間のはずが、誰もが憂鬱な心持ちだった。風が冷たくなってから、庭で食事をとる習慣はなくなった。プールの水はとろりと緑がかっている。葉月は仕事に出かけ、まーちゃんは友達の家に遊びに行っていた。
「どうかなあ。そんな簡単なもんじゃないと思うなあ」
耶居子はぼそっと口にすると、玲子と優子がこちらを見た。
「引きこもっている時って、生きている気配を消したいもんなんだよ。空の食器を見られるだけで、恥ずかしいんだって。こうやって私たちに心配されるのも、いたたまれないんじゃないのかな」
自分を振り返れば、ユリエの心境は誰よりも理解できる。それに、鬱陶しい弱虫だという考えは変わらないものの、耶居子は彼女を見直しつつあった。
----世の中全部に背を向けるだけのエネルギーが、あのぶりっ子にあるなんて。
無理矢理ドアを蹴破ったあの夜、ユリエはついに耶居子と目を合わせなかった。とうとう降参して部屋を出るなり、こちらの背中めがけて雑誌を投げつけ、振り返るより早く乱暴にドアを閉めた。負の感情をあそこまでむき出しにする人種は、自分以外で初めて見た気がする。昨日はモデルの仕事をすっぽかし、事務所から電話がかかってきたそうだが、ユリエは取り合わなかった。もともと人気はなかったらしいし、クビになるのは時間の問題だろう。
「じゃ、ほっとけっていうの? まったく、のんきよね。耶居子さん」
顔を上げると、玲子が険しい形相でこちらを睨みつけている。
「ユリエちゃんが壊れたのはそもそもあなたのせいだっていうのに。彼女の部屋の酷い有様見たでしょ? ここ数週間、彼女、エイジさんと上手くいってなくて、もともと荒れていたのよ。とどめを差すような真似して! 彼女が栄養失調で倒れたら、全部あなたのせいなんだからね」
もう何十回となく繰り返したやりとりに、さすがにうんざりだ。
「だから何度も言ってるじゃないすか。奥沢エイジとは何もありませんって! モデルの仕事は断りました。あれっきり連絡も取っていないし」
「よく言うわ。あの日本橋のエスケープ以来、目に見えて色気づいているくせに!」
思わず、自分のいでたちを見下ろした。
葉月のロックTシャツは、彼女ならワンピースになるところ、ずんぐり体形の耶居子にはジャストサイズだ。目玉をむき出し、涎を溢れさせ、中指を突き立てているゾンビの絵柄と下品なロゴが気に入っている。さらに葉月がベルト代わりにしている金のチェーンを首飾りにしている。お金がない分、皆のお下がりを貰って着回すことにしたのだ。確かに、葉月の店に行ってからというもの、鏡を見るのが楽しくなっている。優子に教わって、目の周りを暗くする不健康メイクと、頬がこけて見えるチーク使いをマスターしたところだ。料理の邪魔にならないように、前髪はリーゼント風にまとめている。色気づいたわけでも、美女になりたいわけではない。ただ、心の暗黒部分を外見に反映させられるとわかった今、身なりに構うのがおっくうではなくなったのだ。
「嫌になっちゃう、宗佑さんだけじゃなくエイジさんまで手玉にとるなんて! 顔に似合わずしたたかなんだから!」
顔に似合わず、という言葉に、優子は敏感に反応し、困ったようにこちらの表情をうかがっている。
玲子の紅潮した頬を見て、耶居子は心底驚いた。どうやら、本気で怒っているらしい。夕べ、ユリエを心配してやってきた宗佑と打ち解けた様子で話していたのが、よっぽど気に食わなかったのだろうか。それにしても--?--。こんなことを言ったらますます怒鳴られそうだが、プリプリ怒っている玲子は見蕩れるほどに愛らしい。好きな男のために、妬いいている美女というのは、なんてコケティッシュな魅力に溢れているのだろう。これがブスだったら醜悪で目もあてられないことだろうに。宗佑の前でもこんな表情を見せればいいのに。
「あのね、宗佑さんともなんでもないですってば! ただの幼なじみ! それに、彼が好きなのは......」
玲子は頭から湯気を出さんばかりにして遮った。
「ペチャペチャうるさいっ。私、心配で仕方がないわ。ユリエちゃんは外見の通り、壊れやすくて繊細な性格なんだもの。どこかの誰かさんと違ってね!」
「もう、玲子さんったらやめてよ! 今は私たちが仲間割れしている場合じゃないでしょう? ユリエちゃんに何か食べさせることを第一に考えるべきじゃないの?」
泣きそうな声で優子が割って入り、玲子がしぶしぶ口をつぐむ。一同でテーブルを取り囲み、一時休戦の運びとなった。
「とにかくさ、お皿に載せたちゃんとしたご飯はよくないと思う。身構えるって」
「それなら、パラフィン紙にくるんだサンドイッチなんかはどう?」
「うーん、もっと生っぽくないようなものがいいかなあ。ユリエが、すぐに食べなきゃ、とか焦っちゃうものはアウト。気が向いた時につまめる、市販のスナックやお菓子が本当は一番いいんだよね」
「駄目駄目、心が弱っている時に、ジャンクフードなんて!」
「ねえ、それなら、カロリーメイトとかソイジョイみたいな、栄養機能食品はどうかな」
優子は勢い込んで身を乗り出してきたが、玲子は巻き髪を左右に振った。
「悪くはないんだろうけど、料理研究家として賛成できないわ。こういう時こそ、人は優しい気持ちのこもった手作りの食事をとるべきなの!」
耶居子は頬杖をついて、きらりと目を光らせる。
「じゃあさ、間を取って、カロリーメイトを私たちで手作りするのはどう?」
優子がたちまち目を見開いた。
「カロリーメイトを手作り? そんなことできるの?」
「うん、だってアレってイギリスのクッキー、ショートブレッドが原型でしょ。材料が違うだけで、同じ作り方でいけるんじゃないのかな」
玲子が、おや、という表情を浮かべた。
二日前、初めてアシスタントとして参加した玲子の教室を思い出したのだ。「秋の英国風ティーパーティー」なるスカしたレッスン名には辟易したが、出来上がったきゅうりのサンドイッチやスコーン、ショートブレッドを様々な紅茶で楽しむのはピクニックのようで、楽しかった。生徒の多くが、予想していたような取り澄ましたセレブ美女ではなく、ごく普通のお料理好きな女性だったのも嬉しい発見だった。何人かに「耶居子さんのブログ、楽しみにしています!」と気さくに声をかけられ、ますますやる気が高まっているところだ。
引きこもり時代、ほぼ毎日のようにお世話になっていた、あの黄色いパッケージの原料表示を思い浮かべようとする。
「バターの代わりに食用油脂を使えば、かなりいい線まで再現できるんじゃないのかな。あとは脱脂粉乳、大豆タンパクを加えれば、あのモサッとした独特の味わいは再現できるはず!」
「つまり、マーガリン、スキムミルク、きな粉で代用可能ね」
玲子がさっと腰を浮かし、手早くエプロンを身につけ、キッチンへと入っていく。
「なに、ボケッとしているのよ。さっさと支度して。あなたは私のアシスタントでしょう。まずは小麦粉を測って! ユリエちゃんのために栄養たっぷりの自家製カロリーメイトを作るわよっ」
耶居子は弾かれたように、優子の腕をとって立ち上がる。美容オタクのバツイチ整形女であることに変わりはないが、上司として玲子はなかなか面白い人間だった。冷蔵庫からグレープフルーツを取り出した玲子は、まな板に載せ、包丁でスパンとまっぷたつにした。さわやかで胸のすくような瑞々しい香りが、キッチンいっぱいに溢れ出す。
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