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第二一話
八月にしてはやや涼しい風が吹いていて、屋外での立食パーティーにはうってつけの天候だった。準備と宣伝に時間をかけたかいがあり、開け放したリビングにもプールサイドにも、五十名近い招待客で溢れている。浜島邸のあらゆる場所に飾られた、ユリエの作品の一つ一つが、マスコミや写真業界の識者らに熱心に鑑賞されている。亡くなった両親がこの光景を見たら、誇りに思ってくれることだろう。
それなのに、とっておきのプラダのサマードレスも、葉月の手による入念な巻き髪も、エイジから届いた鬼百合の花束も、ユリエの気持ちを少しも浮き立たせてはくれない。
ケータリングの料理は何一つ届いていない――。宗佑、葉月、優子がシャンパンやワインを注いで回っているから間が持っているものの、誰もが口寂しくなっている頃だろう。何よりも、池田耶居子が姿を見せないなんて。初めての個展にして今日はユリエの誕生日だ。友達なら、料理は用意できないとしても顔ぐらい出すべきではないだろうか。
水辺でシャンパンを煽り、泣きたい気持ちで陰り始めた太陽を見上げる。カシュクールのワンピースに身を包んだ玲子がそっと耳打ちしてきた。
「あきらめましょう、ユリエちゃん。仕方ないわ。私が耶居子ちゃんだってここに顔を出しづらいわよ。私、融通が利くケータリング業者はいくらでも知ってるわ。今からだって遅くないわ。電話をかけましょう」
「耶居子は絶対に来るもの。売られた喧嘩は絶対に買う女よ。私は知ってるの」
やけになってシャンパンを飲み干すと、黒いドレス姿の葉月に空のグラスを突き出した。
――ねえ、耶居子、私の個展のケータリングを、フードコーディネーターとしてのあなたに依頼するわ。それが成功すれば、あなたのやったことはすべて水に流す。
「洗足池野獣会」千秋楽の打ち上げでそう命令したのが三日前だ。あれきり耶居子からは連絡がない。やはり、もうかつての彼女ではないのだろうか。いや、でもそんなはずはない――。何度も心の中で繰り返して来た問答に、またもや押しつぶされそうになったその時、キキッと車が停まる音に続き、玄関の門が開いた。
「耶居子!」
ギャルソン風の黒服に身を包んだ耶居子を先頭に、半円形の蓋で覆われた盆を手にした『洗足池野獣会』劇団員数名が後に続いている。耶居子おねえちゃん、とまーちゃんが高らかに叫び、なんの躊躇もなく飛びついていった。耶居子はすぐに身を屈め、愛おしくて仕方がないようにまーちゃんを抱きしめ、何か囁いている。どこからかメルローも走り出てきて、玲子、葉月、優子、宗佑も駆け寄って来た。誰もが興奮して、八ヶ月ぶりに姿を現した耶居子を声もなく見つめている。ユリエはつかつかと歩み寄ると、わざと乱暴に言い放った。
「遅いじゃない。料理はどうしたのよ」
本当は、抱きつきたくなるのを堪えるのに必死だった。
「もう用意してあるよ、とっくに。ほら、あなたの目の前にあるじゃない」
耶居子はこともなげに言うと、プールを指差した。怪訝な気持ちで静かな水面を見つめ、ユリエははっとした。駆け寄って跪き、恐る恐る人差し指で水面を押す。ぷるんと冷たく柔らかい感触が皮膚を跳ね返してきて、息を呑んだ。隣にかがんだまーちゃんも、
「すごーい。このプール、ゼリーで出来てるよ!」
と驚きの声を張り上げ、招待客達はざわめきながら一斉に水辺に集まってきた。もはや取り繕うことも忘れて、ユリエは耶居子に詰め寄っていく。
「どういうこと? どんな魔法を使ったのよ。真夏に屋外でゼリーを固めるなんて」
「それは企業機密。この八ヶ月、いろいろ勉強したの。覚えてる? 子供の頃の約束。『あしながおじさん』のジュディのもしもトーク。大人になったら、あんたんちのプールをゼリーでいっぱいにしてやるって、私、約束したじゃない」
耶居子の目がいたずらっぽく輝いているのを見て、ユリエは言葉を失う。ああ、これでこそ耶居子だ――。見とれるほどに自由で、行動が読めなくて、勇敢で。隣にいるだけで冒険している気持ちになれる特別な女。耶居子は足元まで覆う丈の長いエプロンからマイクを取り出すとスイッチを入れ、おもむろに喋り出した。
「本日のケータリングを担当させて頂きました、池田耶居子と申します。皆さん、庭のプールをご覧ください。さわやかなグリーンアップルのゼリーでございます」
どよめきがプールサイドを包む。記者の何人かが、プールに向かってカメラを構え、激しくシャッターを切っている。写メールを撮るために身を乗り出す客も多い。
「もちろん、プールをアルコール消毒してからゼリー液を固めましたから、安全に召し上がれます。スタッフがお配りしております、スプーンでどうぞ。他にも、到着したばかりのフードメニューが豊富にございます。ただ盛り付けしております、アスピック、チーズのテリーヌ、フルーツのババロア、パプリカのムース......。口当たりがぷるんとした、見た目も艶やかな涼しいお料理をご用意致しました。そう、メニューのテーマは『美女の涙』、この家の美女達がこれまで流して来た涙を、ゼラチンで固めたイメージにございます」
どっと笑いが湧く。招待客の視線は、耶居子の隣の、ユリエ、玲子、葉月、優子に向けられていた。すべてを手にしたような幸福そのものの美女達を目にして、誰もがこの発言をジョークと受け取ったようだ。耶居子はやや声のトーンを落とし、視線をゆっくりとプールサイド全体に行きわたらせる。
「美人が楽に生きられるなんて、それは美しくない者のひがみと幻想です。美しいというだけで、様々な怒りや嫉妬のはけ口になってしまう。悲しみを呼び寄せてしまうのは事実です。美しい人が自分を見失わず、信じた道を歩いて行くのは並大抵のことではありません」
ゆらめくプールのゼリーを見つめていたら、あの夏の誕生日が蘇ってくる――。
ユリエは大好きな親友が来るのを今か今かと待ちわびていた。ところが、リボンを直しに洗面所に行っている間に、耶居子は帰ってしまったのだ。びしょ濡れの兄から、彼女が到着するなり男子らにプールに突き落とされ、泣きながら逃げ帰ったことを知った。どうしてあの時、全力で追いかけなかったのだろう――。情けない。ユリエは形のいい唇を噛み締める。クラスメイトの目が怖かったのだ。耶居子が好きでも、完全に彼女の側に付くことは怖かった。もう二度といじめられたくなかったから。
耶居子に出会うまで、ユリエはずっと一人ぼっちだったのだ。口を開けば生意気だ、と男子に目の敵にされ、女子からはお高くとまっている、と敬遠されていた。どうやら、自分は人と違うらしい――。ぼんやりとした予感はあったものの、自分の何がそこまで人を逆撫でするのかわからなかった。
耶居子のスピーチに、いつの間にか誰もが聞き入っている。
「私達が言葉を最初に交わした時、ユリエさんはクラスメイトに糾弾され、泣いていました。彼女の描いた絵が、人と違う。今思えば、皆は嫉妬していました。誰にも媚びず、才能も美貌も手にしている特別な彼女に」
そうだった。図画の時間に、庭のプールを描いた時のことだ。プールの水が青ではないのは変だ――。目がおかしいんじゃないか――。誰もが口々に自分をなじる中、黙って様子を見ていた耶居子が突然、割り込んできたのだ。
――水が青いのってアニメの中だけじゃん。目がおかしいのはあんた達の方でしょ。
いじめっ子達の前に立ちふさがった耶居子があまりにも頼もしく思え、我慢できずぽろぽろと泣き出してしまった。堂々とした憧れの女の子の前で泣いてしまったことが、ひどく恥ずかしく惨めだった。
しかし、あの時からだ。クラス内のユリエの評価ががらりと変わったのは。たった一度涙を見せただけで、男子の大半があからさまに好意を見せるようになり、女子はしきりに世話を焼いてくれるようになったのだ。涙を見せれば楽に生きられることを、ユリエは身をもって知ったのだ。態度が変わらなかったのは耶居子ただ一人だけ――。それなのに、あの誕生会の日、彼女を見捨ててしまった。自然と耶居子とは疎遠になり、以来、人の顔色をびくびくと窺いながら、か弱い振りをし、自己主張をせず、愛想笑いを浮かべるだけの人生になった。
プールサイドはしんと静まり返り、耶居子の声はゼリーの表面を滑って隅々まで響き渡っている。
「美人には理不尽な要求が突きつけられがちです。自我など捨てろ、人に愛されろ、世間を逆撫でするな。だって生まれつき、人より恵まれているんだから――。でも、そんな声に負けてはいけないんです。だからこそ私は、こうして写真家として成功したユリエさんを親友として誇りに思います。彼女は少女の頃の感性をたった一人で必死に守り抜いたんです。ここにある作品は皆、彼女の孤独な闘いの歴史です。皆さん、どうか一つ一つをじっくりと鑑賞して行って下さい。長くなりましたが、私からのスピーチは終わります」
耶居子が深々と頭を下げると、一瞬水辺はしんと静まり返り、やがて割れるような拍手が起きた。方々で「誰だ、あの池田耶居子って」「プロのフードコーディネーターだよな」「うちのレセプションパーティーも彼女にお願いしたいわ」との囁きが聞こえて来る。もう、明日からは我修院ノブヨの付き人をしている場合ではなくなるだろう。
マイクを手離したら、耶居子は急に恥ずかしくなってきたようだ。人々の視線を避けるように体を丸め、こそこそと門の方に向かって行く。ユリエはすばやく追いつき、彼女の手を掴んだ。逃がすものか――。今度こそ、この手を離してはいけないのだ。耶居子を離してはいけない。息を切らせて、彼女を促す。
「ほら、約束でしょ。忘れたの」
「......」
「『あしながおじさん』を読んだ時に約束したでしょ。ゼリープールの上をハイヒールで、二人で歩こうね、って。ジュディとサリーみたいにさあ、私達大人になっても、一緒でいようねって。ほら、行こうってば。ねえ」
必死な思いでまくしてていると、耶居子はようやくこちらを向いた。ややあって、照れくさそうににやりと笑い、手を握り返してくる。ユリエも涙を堪え、にっこりした。
二人はしっかりと手を取り合い、人々が見守る中、せえの、でプールに足を踏み入れた。ミュールの踵がクニュッと音を立ててゼリーに沈んでいく感覚を、目を閉じて味わう。足元がたぷんたぷんと揺れる。幼い頃の夢が今、現実となっていると思うと、体の奥が震える気分だ――。ところが、まーちゃんの大声でユリエは我に返った。
「ねえ、ママ。どうして、ユリエちゃんは沈まないのに、耶居子ちゃんは沈むの?」
その声にどきっとして傍らを見ると、なんと耶居子が腰の辺りまでゼリーに飲み込まれているではないか。人々の視線が集まり、遠慮がちな笑いがあちこちで起きている。
「助けて! 助けて!」
耶居子は我慢できなくなったように叫んだ。真っ赤になって足をばたつかせているが、もがけばもがくほど深みにはまっていく。ユリエは慌てて両手で耶居子をひっぱり上げようとするが、びくともしない。どうしよう――。途方にくれていると、プールサイドから玲子、葉月、優子の芝居がかった、はしゃいだ声が聞こえてくる。
「あれあれ? やっぱり、体重が違うのかなあ」
「耶居子ちゃん、かなり痩せたように見えるんだけど。気のせいかしらね」
「うーん。やっぱり私達とは骨格や内臓からして、体の作りが違うのかもねえ。きゃははは」
ユリエはもう我慢ができなくなって、ぷっと噴き出した。耶居子がたちまち表情を険しくする。ああ、この目。世の中全部に大真面目に勝負を挑むようなこの目だ。
「前言撤回! ちきしょう、ちきしょう。どいつもこいつも!」
先ほどまでの優しさはどこへやら、耶居子はかんかんになって、わめきちらしている。彼女が戻って来た――。こみ上げる笑いで口をむずむずさせながら手を差し伸べたら、ぴしゃりと突っぱねられた。まーちゃんまで、宗佑の隣で手を叩いてはしゃいでいる。
「やっぱり世の中は美人に都合よくできてやがる!」
耶居子は真っ赤になって、力一杯叫んだ。招待客達が面白そうに見守っているのも、もはや気にならないようだ。
「あんた達なんかの助けはもう金輪際借りるもんか! 美人なんて一生泣いてろ! 泣いているくらいで丁度いいんだ! バーカ、バーカ! 美人なんて大っ嫌い! あんたたなんか、友達でもなんでもないからな!」
頭から湯気を出さんばかりの耶居子を見下ろし、ユリエはもう笑いが止められない。
だって、キラキラ光るゼリーに包まれた耶居子は少しも醜くなかったから。瞳も肌も髪も生き生きと輝いていて、見とれるくらいに美しかったから。
まるでこの世界から祝福されているみたいに。 (了)
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