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番外・世界最古の新聞

タイムズ

さて、週刊誌として記事を書いていますが、ここでは少し番外編的なものを紹介しましょう。その番外編としては、やはり紹介するとしたら世界最古の新聞にして、数多くの国々で愛され続けている英国の保守系高級紙である『タイムズ』を忘れてはいけないだろう。最古というが、どのくらいというとその始まりは1785年と、かれこれ大雑把に約3世紀ほどその時代をまたにかけているというのだ。そんな偉大な新聞のことを特集しないでどうしようものか、というわけで色々特集していきましょう。

タイムズを傘下においているのは、先にも少し触れたルパート・マードレック氏率いるニューズコーポレーションの『News International』がその経営を担っている。掲載内容については、オーナーであるマードレック氏の意志を強く反映しており、論調としては保守的内容となっている。

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発行部数

タイムズの発行部数として、1ヶ月平均として約45万部を発行している。もちろん変動するときもあるが、基本はこの数字を行ったりきたりしている。ちなみにだが、世界で一番発行されている新聞としては、何と日本の読売新聞が世界で最も発行されている新聞の第1位を獲得している。その2位には朝日新聞がつけている。発行部数にしても、読売新聞が1000万部、朝日新聞が800万部となっており、この数字を見てしまうとタイムズは確かに伝統ある新聞なのかもしれないが、桁違いの売れ行きを見せているこの二紙と比べたら何となく気後れしてしまいそうな気分になるのは気のせいだろうか。とはいうものの、タイムズはその二紙と提携しているので、ライバル関係というよりは共闘関係に近い、のかもしれない。

歴史

タイムズの歴史を紐解いていくと、その歴史は主にイギリスにおいて影響力を及ぼし、世界情勢に対する世論の形成においては特にその存在感を発揮するといわれています。高級新聞ということもあって、イギリス国内においてはタイムズは別格的存在に位置しているのかもしれない。

封を切ったのは1785年、『ジョン・ウォルター』氏によって『デイリー・ユニバーサル・レジスター』の題字で創刊され、その後1788年1月1日にて現在の名前に変更される。昔の名前と比べるとどこか特徴のない名前のようだが、タイムズというのはありふれていそうだが、何を書きたいのかはっきりとしている印象があるように感じるので、不思議なものだ。

ウォルター氏が16年間編集長を務めたあと、1803年に経営権と編集長の座を息子に譲ることになる。ウォルター氏が編集長を務めていたとき、タイムズは一つの転換期を迎えていた。掲載した内容が名誉毀損だとして、ニューゲイと監獄に収監されるという事件が発生して、約16ヶ月もの間投獄生活を送ることになる。しかし、ウォルター氏がヨーロッパ中の事象、特にフランスからのニュースを集めるために先駆的な努力を持って、タイムズは管領や資本家の中での評判を確かなものへとするのだった。その後タイムズは政治分野に留まらず、科学・芸術・文学の著名人からの寄稿を広く集めることにも成功しており、掲載することでも評価を高めることに成功するのだった。堅実な取材姿勢と、その一貫した掲載内容から気難しい政財界からも信頼を獲得することになったタイムズは、この時より確実にその地位を確かなものへとすることに成功する瞬間でもあった。この変化が生じなければ、恐らく途中で存続も危ういことになっていたのでは、とも考えられるだろう。

こうしたタイムズの噂が広がったことも、当時は競合他社の存在が少なかったということも大きな要因の一つだろう。活動するにおいても、敵となるものがいなければほとんど独占的に自分たちが市場を支配できるので、その分に見合った莫大な利益を手にすることになり、取材活動において掛かる費用についても惜しみなく経費を裂くことが出来たので、掲載内容に関して十分すぎる内容を作ることが出来たのだ。

またタイムズは国外に特派員を送った最初の新聞としても有名であり、戦場へ特派員を送ったのもタイムズが一番初めに行なったことだ。これもその莫大な資産があったからこそできたことで、もしその財源がなければ簡単には出来ないことだ。その後『W・H・ラッセル』が、利器群に胎動する特派員としてクリミア戦争へと派遣され、イングランドに帰国してからは、イギリス全土において莫大な影響力を及ぼすことになるのだった。この時点において、タイムズがイギリス国内における主要新聞としての地位を不動の物として確立した瞬間でもあった。敵に付け入る暇もないまま、財源も情報力も、新聞を作る上で必要なもの全てを手に入れたことで現在までその名が続くことになるのだった。

おすすめの一冊

日本とタイムズ

1887年から北京へ派遣していた『ジョージ・アーネスト・モリソン』氏が、1900年にて義和団の乱に遭遇して55日間の楼上を伝えた特派員記事では『柴 五郎』や日本を故意的に伝えることになり、1902年の日英同盟締結に向けてイギリス国民の世論に多大な影響を及ぼすことになる。

なんと、日本と英国が日英締結を結ぶことになるきっかけを作ったのもタイムズだというのは驚きだった。この新聞の中でイギリスに日本と日本人という存在がこの世界にいるということを初めて認知された瞬間でもあり、その最初の日本人として紹介されたのが『柴 五郎』氏というのだ。

このような経緯になったのも、この義和団の乱において柴氏の行動ですべてが決まることになる。乱の折、総指揮取ることになったイギリス行使『クロード・マクドナルド』氏は、柴氏とその配下の日本人兵士達の勇敢さと礼儀正しさに心を動かされることになり、彼らを心から深く信頼することになるのだった。

そもそもどうしてこのような事態になったのかというと、清朝の情勢が非常に不安定なこともあり、宣戦布告したことにより清に在中していた外国人達に危機が迫ることになった。その後何とか北京城の篭城することになり、攻防戦を繰り広げることになるとようやく休戦状態に入ることになった。この篭城戦の際に総指揮を担当したのはクロード氏だったが、実質的な指揮官として動いていたのは柴氏だったという。また休戦までに戦死者が出ることになるが、危機的な状況にありながら戦死者は約40名前後という、最小限の被害で食い止めることが出来たのだ。日本は最も死亡率の高い場所の防衛を担当したこともあり、死と隣合わせの状況でありながらも戦う姿にマクドナルド氏、そしてモリソン氏も感銘を受けたのだろう。

篭城からの解放後、1901年の夏の賜暇休暇中には当時のイギリス首相の『ロバート・ガスコイン=セシル』と柴氏は何度も面会することになり、7月15日には日本公使館に林董を訪れて、日英同盟の構想を述べ、伊語の交渉全てに立会い、日英同盟締結の強力な推進者となったことから柴氏は事実上、日英同盟のきっかけを作ることになった影の立役者として評価されることになるのだった。そんな彼の働きはタイムズでも報道されることにもなったので、日本と日本人というものがどのような存在なのかというのを報道するきっかけにもなるのだった。

日本とタイムズにはとても深い繋がりがあるということには驚いた。どこで何と繋がっているの分からないというのを思い知る瞬間だが、こういうことがあるからこそ歴史は大変面白いと思えるのかもしれない。

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